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 16歳のころ自宅近くの空手道場に通っていた。自分でもめずらしく夢中になり通い詰め日々練習に打ち込んでいた。そこの道場の練習日は月火水木金土と日曜以外は毎日練習日であった。1969年当時は娯楽がなかったらしい。時間を持て余していた。かといって勉強なんてものは一切しなかった。・・・道場の練習だけではものたりない。高校の空手クラブにも入部した。当時は、まだ唐手などは流行ってはいなかった。ブルースリー映画がブームになったのは、その後5年後だったと思う。

 その高校空手クラブの顧問は、教師はおらず、生徒が部長をしていた。その部長が現在関東で、下地派上地流の道場を展開している下地先輩なのです。・・・当時自分が通っている道場の流派も上地流であった。また互いに通っている道場も、歩いて40分、走って15分、スキップして30分といった近さであった。・・・・・{その先輩から最近、弟子がH/Pを制作してくれたのでのぞいてみてくれと連絡がきた。} 

 その先輩のもと、放課後のクラブ活動は厳しくもあったが充実した毎日だった。当時、空手部なんてかなり軽く扱われていた。勿論道場などは無く、理数科の教室の椅子などを教室の片側によせ、組み手や型などの練習をしていた。稽古が終ると机や椅子などを元に戻さなければならなかったが黙々と準備や片づけなどをこなしていた。

 その当時、空手は、国体の参加競技種目には選ばれてなかった。空手競技大会高校生沖縄県一番選手権大会などといった。思春期の少年が目標熱中してスポーツに励むといった国体種目などは無かった。競技種目があったならそこそこ良い成績を残せたはずだと今思う。祖国復帰数年前なので全国大会に出場出来るなら必死に稽古していただろうなあ。・・・(なぜなら飛行機に乗れるのだ。機内食を食いながら内地にタダで行けたのだ。)

 当時、下地先輩の両親は内地へ移住しており、先輩は知人の処へ下宿していたようだ。考えてみれば高校3年生といえばまだ少年じゃないですかそんな学生が一人で高校へ通い、クラブ活動では、後輩への上地流空手指導をこなし、放課後は町道場で上地流を研鑽する。・・・よほどのこと上地流に心酔したのか、ほかに娯楽がなかったのか?

 そんなころ、上地流の昇段試験が上地流本部道場・普天間修武館で行われた。自分は初段、先輩は3段の昇段試験を受け無事双方合格した。当時の上地流は沖縄県には8道場しか存在していなかった。試験の科目には口頭試問等があったが、その内容は、拳の握り名称や足先の名称など上地流独特の呼び名がありそれらを把握しているかを問われた。

 上地流のけり技、突き技、受け技は、ほかの流派とはかなり違うのだ。拳で当てることもするが指先で急所を突き込む技や、足先で敵の急所に突き込んで致命傷をあたえる。しかも、上級型になればなるほどそういった技が多く取り入れられているのが上地の特徴でもある。・・他の口頭試問は、道場の先生の名前を8道場すべて述べよといったのもあった。

 サンチンという体を鍛える鍛錬試験もある。その呼吸方は特殊なのです。Z戦闘機のG対策呼吸法と同じ呼吸方法なのです。どちらかといえば、航空ZのG対策呼吸方が上地流サンチンの呼吸方法に偶然似ていると言った方がいい。歴史的には上地流のサンチン呼吸が古いのですから。サンチンは師匠が弟子を鍛えるため、腹は突くは、蹴りたおすは、回し蹴りはするわで、全身を固めてそれに耐えなければならない。そのため、呼吸も小刻みに吐き、小刻みに息を吸い。尻も窄める。

 組み手の試験もあったが自分は、無我夢中で相手に殴りかかり、殴りかかられ、逃げ回り、蹴られ、蹴り返し、息も絶え絶えになった時 「時間、勝負なし」 で終わった。まるでタウチー「 闘鶏 」 のようだった。

 上段組の組み手が始まった。下地先輩の自由組み手である 先輩独特の構え、待ちの構え、相手の攻撃が入ると受け流した瞬間、足先蹴りを中段にかます。「 イッ・・・ポン 」 決まった。さすが先輩、年の割には落ち着いた。瞬間のさばき・瞬間の攻撃。自分もああなりたいと思った。

 上級者の組み手は、無駄な動きがない。互いに、「礼 初め、」 で、構え間合いを取る。当時の組み手は、派手にフットワークなどはしなかった。互いにじわりじわりと足の指で間合いをつめていく。緊張感と殺気気味に接近し、一瞬で技を決める。まるで真剣居合切りのような張りつめた感があった。タウチーとはエライ違いだ。自分は鍛錬がまだ足りぬと思った。

 上地流の間合いは少し他の流派とは違う、寸止めなどはしない、顔面を突くことも任意なのだ。相手の人間性にまかされているようなものなのです。その為、異常に接近し胸を突きまくるといった攻撃はありえない。その間合いなら顔面を突いている。

 先輩はやがて卒業し、神奈川の郵便局に就職したが空手は続けていた。沖縄でお世話になっていた師匠のもと関東で師事を受け鍛錬していると便りが来た。その数年後道場を開いたと連絡がありビデオが届いた。その画像を見てみると驚いた。画像には、バットを足先(ソクセン)で受け、たたき折った画像があった。親指、中指、でバットを折ってしまっている。いろんなバット折りは画像でみたが足先で受け折るのは初めてみた。さすが上地流の真骨頂、中段前蹴りの足先蹴りなのだ。

 自分も卒業後就職し社会人となったが稽古は続けていた。が、ストレス解消の手段といった感が強かった。当時の上地流は分派・分派が激しく、我道場は上地流の最初の名称である半硬軟流(パンガイヌーン)と名称を名乗り分派した。当時は、その流派の大会にもよく出場した。型で優勝と準優勝までいったがセーリングの魅力に出会いパッタリと稽古をやめた。どちらかというと、ストレス解消の手段として稽古をしていたので未練はなかった。受賞したトロフィーと賞状・メダル等はタンザニアからの留学生へ記念にあげた。いまごろはタンザニアのリビングに飾られているか廃棄処分になったかのどちらかかもしれない。・・・・・今から17年前のことです。

 

 あれから41年あまり、今現在も先輩は、上地流を鍛錬修練指導し、さらに海外にまで数支部を展開している。

                             下地派上地流

 

 

 

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